このところ悩みを抱えているという知り合いの話だ。知り合いは工場に勤務する40代の男性なのだが、一緒に働く20代の男性のことで、精神状態がボロボロになっているそうだ。
その20代の男性(以降Aさん)は必ず挨拶もするし礼儀正しく真面目に見える。しかし、聴いてみるとかなりの問題があるように思える。
そんなAさんの問題とはなになのか?
目的や成果よりも自己保身と自己満足のために働く
これから書くことは人格否定が目的ではありません。このような人に対して、どういう指示や行動を取れば良いのかという悩みを綴っています。
成果物を仕上げたり、成果物の品質を高くする。そんな目的をいちいち説明しなくてはならない。しかし、Aさんが大切にしているのは、その過程で自分の行動に誤りがなく、正しく行動ができていたかどうかだ。
目的に対する目標をクリアできなかったとしても、その原因が自分ではないということが大切で、そのためには問題とは関係のない質問で問題をかき消し有耶無耶にして誤魔化す。
決して反省はしないのである。
自分の判断に問題があった場合、その判断ミスを引き起こす「内容が悪い」のであって、「自分の判断ミスが悪いと」いう概念がない。
一見真面目に見えてもこれでは仲間とのコミュニケーションも円滑にいくわけがない。
なわとびの輪の中に入らないことに疑念がわく
仕事でお金を稼ぐには成果をあげなくてはならない。しかし、Aさんはカラダを動かすことを最小にし、頭で考えることにこだわる。
その結果、Aさんがやるべき仕事は他の仲間が行い。手や体を動かしてやらなくてはならない時間帯に、彼はミスがないか確認を行う。
本来、Aさんが参加すべき仕事は仲間が片付け、やっと一段落ついた瞬間にAさんはその場に現れる。
そこにはもう仕事はない。そしてAさんはまた確認作業をはじめる。
この状況をなわとびに例えてみるとこういう具合だ。
なわとびの縄がまわっているのを見ているのに、その瞬間には飛ぼうとしない。
そして、まわし疲れた仲間が休んでいると、「もう終わったんですね!?」とも言いたげな顔でその場を去っていく。縄をまわしている仲間からは異様な光景にちがいない。
人間性の問題なのだろうか?
病気なのだろうか?
そもそもAさんは、なぜ他の仲間と同じタイミングで仕事をしてくれないのだろうか?
もちろん指導ということを行っていない訳はない。都度、問題があればなぜを問う。
このタイミングではこの業務を行いなさいと複数の仲間が指導をしている。しかし、それを聴くAさんの表情はキョトンとして理解しているようには見えない。あきらかに不満気な時もある。
ここまでの話を聴いて、私はAさんには状況に対してどうするべきという想像力が欠如しているよう感じた。
納得したプログラムしかロードしてくれない
社内には業務マニュアルも設置されているし、都度改善もされている。しかし、人間の思考・行動すべてをマニュアル化することはできない。
一部の決まった動きだけで業務が行えるのなら、その現場はすべてオートメーション化されているだろう。先の未来は間違いなくAI化されて無人になるだろう。
オートメーションされていない部分が多ければ多いほど、臨機応変に環境に対して応えを出して行動しなくてはならない。そんな場面に対してもAさんは「自分は」何をすべきなのかということを1番に考える。
問題は何なのかを認識しないまま、何をすべきか考えても、すべきことが単純なことでない限り、せっかくの行動が意味のないものになってしまう。
まわりの仲間の行動を見て自分が何をすべきか汲み取ることが困難に思える。
自分の考え・行動を優先するあまり、ルール化されたことの意味や順番を無視する。そんなAさんの行動にほとほと疲れノイローゼになりそうだと知り合いは言う。
プログラムのロードに時間を要し、すべてのタイミングがズレてしまう
ひとつのことに気を取られると簡単に手順を逸脱してしまう。それが原因で仲間の仕事も遅延してしまう。Aさんはまったくそのことには気がついていない。
頭で考えルールというプログラムの中から最適なものを選択。それを実行するために選択したプログラムをロードする。しかし、その流れに予想以上の時間を要している。
最適化されたプログラムが思い当たらない場合、フリーズしてしまったり、自己言語に変換することに時間を要しているように見える。
ここまでの内容を聴いて、これは性格の問題なのだろうか?
教育や家庭環境などの影響だろうか?
それとも病気なのだろうか?
わたしには判断することができない。